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【元千葉県庁職員 赤川さん】海と内陸の魅力をアピールすれば、袖ケ浦はもっと発展できる

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年9月1日
赤川さんのプロフィール画像

臨海部の発展とともに成長した新しいまち・袖ケ浦

赤川さんのバストアップ画像

昭和39年に千葉県庁に入庁し、退職するまで土木技術者として、千葉の臨海部の開発・整備の一員として関わってきました。袖ケ浦・臨海部の開発の歴史を振り返ると、昭和40年代にさかのぼります。埋め立て以前の臨海部は、干拓地ではあったものの塩害がひどく稲作に向かない土地でした。そのため、北袖・中袖・南袖と順に企業用地の造成が行われ、東京電力、東京ガス、住友化学など日本のエネルギー・石油化学の要となる企業が進出。兼業漁民が多かった袖ケ浦の人達の多くが、それらの企業で働くようになりました。もちろん、それだけでは働き手が確保できないため、福王台や長浦駅前、蔵波台に住宅地を造成。人口の流入が進み、昭和49年には埋め立て前の2倍に当る3万人を達成しました。

昭和50年代になると、千葉県でも指折りの豊かな自治体となり、その後も次々と、企業の進出にともなう人口の流入が進み、昭和63年に人口は5万人を突破しました。そして平成3年には、市制施行で袖ケ浦市が誕生。東京湾アクアラインの開通もあり、現在も人口は右肩上がりに増えています

袖ケ浦インターチェンジの現場は、独身最後のメモリアル!

赤川さんが座って話している画像袖ケ浦市の臨海部の航空写真

私が土木技術者として印象的だった仕事は、昭和48年にできた北袖地区の袖ケ浦インターチェンジの現場です。実は、それが独身最後のメモリアル事業 (笑)。袖ケ浦インターチェンジというのは、臨海部と内陸部をつなぐ役目を担い、現在では椎の森工業団地や館山自動車道の姉崎袖ケ浦インターチェンジともつながっています。ところが、当時はオリンピック後のいざなぎ景気の折。千葉県としても企業としても、いち早く工場を操業したいため、北袖の開発とも重なって作業を進めていたんです。この頃、千葉県の合言葉になっていたのが、『伸びろ房総、日本のかなめ』というフレーズ。私たちもこれでモチベーションを高めていましたね。

この時は、昼は現地の測量をして、夜は設計や積算をする毎日。さらには、当時、町に食堂なんてほとんどありませんから、食事はいつも同じ亀寿しさん(現・亀寿し旅館)。業務がひと段落つかないことには、結婚できないし、彼女を待たせるわけにはいかないので、毎日徹夜して必死でしたね。おかげで結婚式の3日前まで徹夜をして業務を終え、無事に今のかみさんをお嫁にもらうことができました

赤川さんが笑顔で話している画像

内陸部をロハスな暮らしの拠点に、臨海部を開けた美しい港に

袖ケ浦の臨海部を開発・整備し、今は、長浦地区に住む私としては、袖ケ浦市の発展について、提案があります。袖ケ浦は主に臨海部の企業立地によって発展してきましたが、やはり内陸部も重要なエリア。工業地域の臨海部と農村地域の内陸部があって、袖ケ浦の魅力が光ると思うので、今後は内陸部の発展に期待したいですね。たとえば、自然派志向の人に向け、平日は東京で働き、休日は内陸部で農業をやるという、プチ移住的な二拠点居住の暮らしを提案してみてはいかがでしょうか? こうした人に向けた住宅をつくるのも1つの手段だと思います。

また、臨海部にも隠れた未開発の魅力スポットが存在します。長浦駅の北側は、工場夜景が美しいエリア。ここにビアガーデンなどの飲食店や公園をつくれば、地元はもちろん近隣や首都圏からも訪れる人が増えると思います。長浦駅と港とは、桜木町駅と横浜港よりも近くなっています。横浜などの発展的な街をモデルとして、開いた港がつくれれば、今よりもにぎわうはず。袖ケ浦には、まだまだ可能性があると信じています

袖ケ浦海浜公園 東京湾を見渡してみませんか(内部リンク)

企業の設備投資に対する奨励金交付制度の案内(内部リンク)

取材日 2018年6月13日
interview&text by Okamoto Nozomi
photo by Okada Keizo

赤川さんが立っている画像
海の画像
海に浮かぶ船の画像
臨海部の風景