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市の紹介(プロフィール、人口など)
羽田空港から高速バスで最短22分のまち!(羽田空港-アクアライン経由-袖ケ浦バスターミナル間)
袖ケ浦市は、東京湾沿い、千葉県のほぼ中央に位置し、羽を拡げた蝶のような形をしています。東部は市原市、西部は木更津市に接し、北部は鋸の歯のような形状で東京湾に臨んでいます。
平成3年4月1日、全国で656 番目、県下で29番目に市制を施行しました。このとき君津郡袖ヶ浦町(きみつぐんそでがうらまち)から現在の袖ケ浦市(そでがうらし)になり、大きい「ケ」を採用するようになりました。
令和3年4月に市制施行30周年を迎え、この間、東京湾アクアラインや東関東自動車道館山線が開通し、圏央道も一部供用開始されるなど、交通結節点として利便性が飛躍的に高まりました。
こうした立地の良さと、豊かな自然や優れた産業基盤が特徴である「袖ケ浦らしさ」を活かしながら、社会基盤の整備や市民サービスの向上に取り組み、他に誇りうるまちづくりを着実に行っており、人口も、増加傾向にあります。
袖ケ浦市の概要
- 面積 94.82平方キロメートル
- 東西の距離 14.0キロメートル
- 南北の距離 13.5キロメートル
- 周囲 84.5キロメートル
- 海岸線 28.7キロメートル
市のシンボル(市章、市の花など)
市の歌
マスコットキャラクター「ガウラ」
市の人口
交通案内(高速バス、路線バスなど)
姉妹都市(ブラジル・イタジャイ市)
市勢要覧
産業
東京湾に接している袖ケ浦市は工業が盛んです。市の北西部の海岸は、かつて海苔養殖が盛んでしたが、昭和40年代から京葉工業地帯が形成され、ここから電気、ガス、石油などの膨大なエネルギーが首都圏へと送られています。
また、臨海工業地帯の造成を契機として、土地区画整理事業により宅地が形成されました。
一方、内陸部の緑豊かな農業地帯では、稲作を始め、レタスやトマトの施設園芸や、里芋、大根、落花生などの生鮮野菜が栽培され、都市近郊の台所を支える食糧基地としての役割を果たしています。また、酪農も盛んです。
将来都市像
袖ケ浦市の将来に大きな影響をもたらす、東京湾アクアラインの千葉県側拠点として、また、羽田空港-袖ケ浦バスターミナル間最短22分の地理を活かし、将来都市像「みんなでつくる 人つどい 緑かがやく 安心のまち 袖ケ浦」の実現に向け、まちづくりを進めています。
都市宣言
- 明るい選挙のまち(昭和51年)
- 青色申告都市宣言(昭和52年)
- 平和都市宣言(平成2年)
- 環境保全都市宣言(平成3年)
- カーボンニュートラル宣言(令和6年)
袖ケ浦市民憲章(昭和52年10月1日制定)
美しい緑の山河と近代工業地帯を併せもつ、私たち袖ケ浦市民は、豊かで平和な郷土をつくるために五つの目標をかかげて市民憲章といたします。
1 だれにも思いやりの心で接し 奉仕の心をもちましょう
1 受け継いだふるさとの心を愛し 新しい息吹きに満ちたまちにしましょう
1 光と緑の自然が調和した 美しい未来の産業都市にしましょう
1 老人を尊び 子どもに夢と希望をもたせるまちにしましょう
1 教養を高め 広い視野にたって 美しい文化のまちにしましょう
地名「袖ケ浦」の由来
「古事記」には、「大和朝廷の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相模国から東征の折り、走水(東京湾)を渡る際に大時化にあい、妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、尊の渡海を助けた。」と記されています。
そこから妃の袖が流れ着いたという言い伝えが生まれ、「袖ケ浦」という由緒ある名が付いたと言われています。
袖ケ浦市誕生までの経過