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展示模型解説 西寺原地区編 ~平安時代の○○村~(郷土博物館)
展示模型解説 永吉台遺跡群西寺原地区編
~平安時代の○○村~
☆展示解説動画を公開しました。 袖ケ浦市公式チャンネル(ユーチューブ)へのリンク(外部リンク)からご覧ください。
袖ケ浦市郷土博物館本館の1階、通史展示室コーナーの奥に、ひっそりとたたずむ模型を見たことがありますか?
これは「永吉台遺跡群西寺原地区(ながよしだいいせきぐん にしてらはらちく)」という市内遺跡の当時の様子を再現した模型です。
一見すると、教科書などで見たような他の古代集落と同じように見えるかもしれません。でも実は、地域でもちょっと面白い特徴をもった遺跡で、よく見ると模型にも、その特徴が再現されているんです。
じっくりと目を凝らして見てみると、住居の中の構造や、地面に空いた穴が細かく作り込まれていることがわかります。実は、これら一つ一つの位置や向きは、本物の遺跡とほぼ同じように再現されています。
永吉台遺跡群西寺原地区について
9世紀前半~11世紀初め、平安時代ごろに袖ケ浦市永吉に営まれた遺跡です。
小櫃川と、その支流の松川にはさまれた、標高63m~75mほどの台地の上に位置します。
西寺原地区のすぐそば、遠寺原(とおてらはら)地区にも遺跡があり、2つを合わせて永吉台遺跡群と呼びます。
模型に完全再現!ムラのヒミツ
竪穴住居(たてあなじゅうきょ)
133軒の竪穴住居の跡(掘り下げた床や柱の跡、溝)が見つかっています。ただし、一度に133軒あったわけではなく、約150年間に建てられた合計の軒数です。一度に建っていたのは、およそ20軒。模型はムラ全体の敷地の半分ほどを再現していて、ちょうど10軒建っています。1軒に5人ほどが住むことができました。
当時、西日本の住居は、地面の上に床がある「掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)」へ変わりますが、袖ケ浦の辺りではまだ床を掘り下げた「竪穴住居」が見られます。
博物館そばに弥生・奈良時代の復元竪穴住居もあるので、見てみてくださいね。
左:模型の97号竪穴住居
右:発掘調査で見つかった97号竪穴住居
粘土貯蔵穴(ねんどちょぞうけつ)
住居があった跡に空いている白く浅い穴。実は土器をつくるための粘土を貯めていた穴でした。発掘現場の写真を見てみると、白い物体が穴の中に詰まっていますが、これが粘土です。
ムラの近くでは粘土がとれるような場所は見つかっていません。恐らく、どこか別の場所へ出向いて粘土を持ち帰ったのでしょう。
いつでも土器をつくれるよう、この穴に貯めていたと考えられています。
左:模型の126号竪穴住居の粘土貯蔵穴
右:発掘調査で見つかった126号竪穴住居の粘土貯蔵穴
ロクロピット
住居の中に、浅く掘りくぼめられた穴の中央にさらに細く、深く掘られた穴があります。
これは、「ロクロ」の軸木を固定するための穴で、「ロクロピット」とよびます。
ロクロ盤の上に焼く前の土器をのせ、手や足で回転させながらヘラで形を整えるのに使われました。
このムラでは住居の中にロクロピットが見られます。住居は人が住む場所であるとともに、土器を作る工房を兼ねることもありました。
左:模型の130号竪穴住居のロクロピット
右:発掘調査で見つかった127号竪穴住居のロクロピット
土器焼成遺構(どきしょうせいいこう)
住居のまわりに、ポツポツと浅い穴がいくつか空いています。これは土器を焼いた跡で、「土器焼成遺構」とよばれるものです。
ムラで作られた土器、「土師器(はじき)」を野焼きする際に掘りくぼめられた穴で、熱をうけたため土が少し赤っぽくなっています。
ムラ全体で60基も見つかっていることから、大規模に土器を作っていたことがわかります。土器の製造工場として、周辺地域へ土器を供給していたのだと考えられています。
左:模型の8号土器焼成遺構
右:発掘調査で見つかった8号土器焼成遺構
カマド
竪穴住居のかべにカマドがついています。
カマドは粘土や瓦などでできており、上に土器をのせ、食物を煮炊きするために使います。
上の絵はカマドの模式図です。
「燃焼部」で燃えた火の煙は、土の中に掘られた「煙突」を通って家の外に出ます。
なお、このムラのカマドは煙突がとても長く作られていたり、煙突に土器を置いて補強していたりします。この辺りでは袖ケ浦市や市原市の遺跡でのみ見られる特徴です。他に、東北地方でも同様の構造が見られることから「蝦夷(えみし)」と関係があるムラなのかもしれません。
左:模型の32号カマド
右:発掘調査で見つかった32号カマド
ここがポイント!
・永吉台遺跡群西寺原地区は土器の一大生産地だった!
・特徴的なカマドを持ち、東北地方とのつながりを持っていた可能性
めずらしい出土品の数々
須恵器(すえき)技術でつくられた土師器(はじき)
ムラでつくられた土器は、種類でいうと「土師器」とよばれる茶色っぽい土器で、縄文土器や弥生土器と同じように野焼きで焼き上げます。
一方、ムラではロクロで土師器の形を整えていましたが、これは「須恵器」とよばれる、朝鮮半島から伝わってきた土器をつくるための技術です。
つまり、ムラでは須恵器の製法で土器の形を整え、土師器の製法で土器を焼き上げており、2つの製法を組み合わせて土器を作っていたことになります。
出土した甕(かめ)
墨書土器(ぼくしょどき)
ムラで見つかった土器の中に、墨で文字などが書かれているものがあります。
これは墨書土器とよばれ、文字の意味は、人びとの祈りを込めたもの、地名、使用用途だったりと様々です。
ムラからは全部で69点もの墨書土器が見つかっています。
また、ムラのそば、永吉台遺跡群 遠寺原(とおてらはら)地区にはお寺があったと考えられており、何か関係があったのではないかと考えられています。
出土した墨書土器
陶印(とういん)
陶印とは、土を焼いてつくられたハンコのことです。
とてもめずらしいもので、発掘調査時には全国でも3点しか見つかっていませんでした。
つくりや、出土状況から、公的なものではなく、サイン代わりに使われたのではないかと考えられています。
文字のようなものが彫られていますが、何と書いてあるのか、そもそも誰が何の目的でつくったのかは未だに分かっていません。謎多きハンコです。
出土した陶印
置きカマド
住居にすえつけられたカマドとは別に、自由に持ち運びができる置きカマドとよばれるものが10点見つかりました。
土器をひっくりかえし、側面をあけたような形をしています。上に土器をのせてカマドとして使いました。
ムラで見つかった状況から、持ち運びができるのにもかかわらず、1か所に固定して使っていたようです。あえて、そのような使い方をしたのか、あるいは他のムラから移り住んできた人びとが持ってきたのでしょうか。
出土した置きカマドに甕を乗せたもの
ムラの終わり、今は○○村?
ムラの最後はいったいどうなったのでしょうか。 そして現在、ムラがあった場所に建つ○○村とは・・・。
ムラの終わりと今
約150年もの間、集落として、あるいは土器の産地として栄えた西寺原地区。
しかし、10世紀後半を最後に土器の生産は行われなくなります。さらに11世紀はじめには、住民達はどこかへ移住してしまったのか、集落自体が消えてしまいます。にぎやかだったムラは静かな場所へと還っていきます。
時は流れ、かつてムラの住民たちの声であふれていたこの地は、また別の形として多くの人びとの声であふれることとなります。
今の姿は東京ドイツ村
現在、永吉台遺跡群のある場所は、房総でも屈指の人気スポットである「東京ドイツ村」の敷地となっています。
東京ドイツ村ができる前、昭和57年度に発掘調査を行うと古代のくらしの跡が見つかり、永吉台遺跡群の一部が明らかとなりました。
昭和59年度までの大規模な調査により、当時のムラの様子が復元できるほど、様々なものが見つかりました。
遺跡の位置
ムラがドイツ村のどのあたりにあったのか、2つの遺跡の調査図を東京ドイツ村の全体図に重ねてみます。
すると、ムラのあった場所はそれぞれ、西寺原地区がパターゴルフ場周辺、遠寺原地区が芝桜の丘周辺であることがわかります。
左:西寺原地区のある場所は現在パターゴルフ場に。
全4コース、72ホールものパターゴルフが楽しめます。
右:遠寺原地区のある場所は現在芝桜の丘に。
4月に満開となった芝桜は、圧巻の一言。
実は身近にも様々な遺跡が
袖ケ浦市では500か所以上の遺跡が見つかっています。それらは意外にも私たちの身近に数多くあります。袖ケ浦市郷土博物館の敷地内やその周りにも、実は弥生時代や縄文時代の遺跡があります。
遺跡がどれくらいあるか、下に地図をのせておきました。意外な場所が遺跡だったことがよく分かると思います。あなたの家や学校、職場の周りにも遺跡があったでしょうか。
気になる遺跡があったら、是非博物館で聞いてみてください。
さあ、古代の遺跡探検にあなたも出かけてみましょう!きっと楽しいですよ。
鼻欠遺跡(昭和中学校 敷地内)
中六遺跡(蔵波住宅地 周辺)
西ノ窪遺跡(袖ケ浦市郷土博物館 敷地内)
横田郷遺跡(横田地区 全体)