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広報そでがうら 令和4年3月号 特集「鎌倉道、ここにあり。」

印刷用ページを表示する 更新日:2022年3月1日

広報そでがうら 令和4年3月号
特集「鎌倉道、ここにあり。」

 1185年、源頼朝が、鎌倉幕府を開きました。
 鎌倉幕府の成立と、当時の袖ケ浦の関わりについて迫ります。

 ※「広報そでがうら 3月号」に、特別インタビューを掲載しています。併せてご覧ください。

源氏と平氏の戦い

 平安時代末期、朝廷の権力闘争で起きた保元の乱(1156)で、平氏・源氏などの武家が政界に進出しました。続く平治の乱(1159)で、平氏の棟梁 平清盛に、源氏の棟梁 源義朝が敗れ、義朝の三男である頼朝は伊豆に流されました。

 頼朝は20年に及ぶ伊豆での流人生活を経て、平氏を倒すため、治承4年(1180)に挙兵しますが、石橋山の戦いに敗れ、真鶴 から海路で安房国猟島(現鋸南町)に逃れました。

 その後、房総の豪族や武士団を味方につけながら、安房国、上総国、下総国を短期間で進軍し、武蔵国を経由して鎌倉入りを果たしました。同年、富士川の戦いで平氏に勝利。平氏は西へ敗走しますが、壇ノ浦の戦いで滅亡。頼朝が鎌倉幕府を開きました。

源氏再興への道
鎌倉街道 - 上総路(かずさじ)

  頼朝が石橋山の戦いに敗れた後、再興の地として選んだのが、房総半島でした。安房国から北上し、上総国では、当時東国一の大勢力であった上総氏、下総国では、源氏にゆかりのある千葉氏などを味方につけ、東国武士の意地と夢を懸けて、平氏と闘い、源氏再興を果たしたのです。

  頼朝軍が北上したルートは、『吾妻鏡』や『義経記』などといった史書の記述から推定されていますが、主に西上総を通るもので、古代から存在していた道を利用したものだったと思われます。

 袖ケ浦とその周辺には、「鎌倉街道」と呼び習わされてきた道がいくつも存在します。その内の下新田・三ツ作から川原井を経て、市原市立野に至る主要ルートには「鎌倉街道」「鎌倉通り」といった地名や、源氏の白旗にちなむ「白幡(しらはた)」の地名に加え、源氏の守護神であった八幡神社や源頼朝伝説の分布が多く見られます。

 そして、このルートは、「鎌倉街道 - 上総路」として、「歴史の道百選」に指定されています。

歴史の道百選

  文化庁が、歴史的・文化的に重要な由緒を有する古道・交通関係遺跡を「歴史の道」として選定しています。

 市内を通る「鎌倉街道 − 上総路」は、平成8年11月1日に「歴史の道百選」に指定された、県内唯一のものです。鎌倉街道としては、他にも3ヶ所(埼玉・神奈川・山梨)が「歴史の道百選」に指定されています。

主要ルートとしての「鎌倉街道」と別ルートの存在

  袖ケ浦とその周辺には、鎌倉街道であると伝わる古道が、現在の道路として使われながら複数存在しています。これらの道は、古代東海道や鎌倉街道、江戸時代の街道などとして、それぞれの時代で地域の歴史を創り、支え続けた道でもありました。

※ページ下部に市内全域図を掲載しています。併せてご覧ください。

主要ルート 鎌倉街道 - 上総路

  主要ルートは、袖ケ浦台地を東西に延びる道で、東京湾に注ぐ河川流域と、小櫃川に注ぐ河川流域の分水界を通っています。飯富字(あざ)西白幡、東白幡付近から、現在の田んぼの中を通り、下新田八幡神社の前を抜けて、ガウランド前の道に繋がっていたと考えられています。

 なお、下新田八幡神社の周辺にも、「白旗」「白羽(しらげ)」の小字(こあざ)が存在します。

 鎌倉街道 上総路の写真

 ※写真は、袖ケ浦市川原井で撮影した主要ルートの現在の様子。

アクセス

海岸部の道

  海岸沿いでは、古代の東海道の候補と推定されているルートの一部が、地元では鎌倉街道として伝わっています。この道は、後の房総往還(現在の県道)とも重なりますが、長浦から椎津間の波打際を避けて、東側に迂回する道となっています。

 久保田の鎌倉街道入口の写真

 久保田の鎌倉街道の写真

アクセス

 平成通り「浜宿団地」の信号を市原方面へ進み、2つ先の道を左へ。しばらく進むと、左側に里山の看板あり。

※駐車場2台あり。

内陸部の道

  内陸部には、主要ルートから海岸部に延びる枝道や、市域を南北に通る幾つもの古道があり、そこにも鎌倉街道という地名や、頼朝の軍勢が万騎に達したことにちなむとされる「マンザカ」などの地名も残っています。

※「マンザカ」については、この後の「地元に伝わる頼朝伝説」の記事で詳しく紹介します。

地元に伝わる頼朝伝説

飽富(あきとみ)神社

  頼朝が休息し、戦勝を祈願したと言われている。

 飽富神社の写真

アクセス

 千葉県袖ケ浦市飯富2863
 ※駐車場は、近くの袖ケ浦公園 駐車場をご利用ください。

飯籠塚(えごづか)

 この塚で休んでいた頼朝に、地元の人が飯籠(竹などで編んだ容器)に食事を入れて差し上げたことから、飯籠塚と呼ばれていた(現在は、この塚はなくなっています)。

アクセス

 現在の袖ケ浦市社会福祉協議会のあたり

下新田八幡神社

  頼朝は、下新田八幡神社に一泊し、この時に、峯下、山口、佐久間、遠藤の四軒が世話をした。一説によると、この八幡神社の御神体である白馬にまたがった人物は、頼朝であるともいう。

 下新田八幡神社の写真

アクセス

 千葉県袖ケ浦市下新田994
 ※駐車場はありません。近くの袖ケ浦公園または郷土博物館 駐車場をご利用ください。

万騎坂(まんきざか)

 高谷方面から東京ドイツ村の東側の道を川原井へ抜けて、松川を渡った先の鎌倉街道に向かう坂で、「マンキザカ」または「マンザカ」と呼ばれる。安房国から兵を増やしながら北上し、富津の「百坂(ももさか)」「三百騎坂」、君津の「千騎坂」を経て、頼朝軍が一万騎になってこの坂を通ったといわれる(頼朝軍に合流するために別動隊が通った可能性もある)。この坂を北に進むと、御所覧塚(ごしょらんづか)に到達する。

 万騎坂の写真

アクセス

※道幅が狭く急傾斜のため、車で行く場合は注意して走行してください。

御所覧塚(ごしょらんづか)

 頼朝がこの塚に上り、軍兵を閲兵したと言われる。

 御所覧塚の写真

アクセス

※道路沿いにあるため、駐車場はありません。

市内全域図

袖ケ浦市の地図

鎌倉道、ここにあり。

 源頼朝が生きていた時代から800年以上が過ぎた現在の袖ケ浦にも、複数の「頼朝伝説」が残っています。

 市内図書館には、本文で紹介した「吾妻鏡」「義経記」などの史書や、源頼朝をはじめとした本特集に関する書籍を所蔵しています。

 また、そでがうらの歴史を学べる郷土博物館や、「国史跡 山野貝塚」、御城印が昨年発行された「蔵波城」など、市内には地元の歴史に触れられる場所が多数存在します。

 これを機に、「そでがうらの歴史」について学びませんか。

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