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広報そでがうら8月15日号「終戦記念日」特別インタビュー

印刷用ページを表示する 更新日:2020年8月14日

「終戦記念日」特別インタビュー

 広報そでがうら8月15日号1面に掲載の「終戦記念日」特別インタビューの全文を紹介します。

 改めて「平和」について考えてみませんか?

インタビューにご協力いただいた積田さんの写真

<写真>インタビューにご協力いただいた積田 文子(つみた ふみこ)さん

 

 広報そでがうら8月15日号 [PDFファイル/2.94MB] 

 実話を元に作成されたた紙芝居「おばさぁんっ・・・」の動画(外部リンク/Youtube)

 

 

※1番下に用語の解説があります。あわせてご覧ください。

 

教え子・我が子・孫を再び戦争へ送らない

  私は昭和11年(1936年)、君津市小櫃で生まれました。小学校3年生の時に終戦を迎え、戦後は教師として勤め、結婚を機に袖ケ浦にきました。退職後は「平和を語り継ぐ会 ピーススタッフきみつ」のボランティアの一員となり、戦争の体験を伝える活動をしています。

インタビューに応じる積田さん 「平和を語り継ぐ会 ピーススタッフきみつ」は、君津・木更津・富津・袖ケ浦の4市からなる退職女性教職員の会「房総(ふさ)の会」のボランティア団体として2000年に発足し、子ども達や戦争体験のない方々に、実体験や追体験を語り継ぎ、平和の大切さを伝える活動をしています。私は2007年に加入し、教え子や子ども、孫はもちろん、「若い方達を絶対に戦争に送ってはいけない」という強い想いをもって、語りべの活動をしています。

 今回は、私の体験と、資料などから学んだり、先輩方から聞いたりした追体験をお話します。

 

戦時中の暮らし

  私が戦争を経験したのは、幼少の頃でした。当時の私は、両親と姉の6人家族でした。周りの家の男性は、兵隊に行ってしまいましたが、私の父は高齢のため家にいましたので、まだ幸せでした。

 昼間も空襲はありましたが、休んでいるときを狙う夜の空襲が多かったです。電気をつけて明るくすると、目立って標的となるため、灯火管制(電球の上に黒い布をかけて電気の下だけを薄明るくすること)をして過ごしていました。

 学校へは、軍隊のように列をつくり、「イチニ、イチニ」と、集団で登校していました。当時は軍国主義教育でしたので、遊びも戦争にちなんだものばかりでした。男の子は兵隊さんごっこといって、今でいうチャンバラごっこを、女の子は戦争の歌を歌いながらお手玉や毬で遊んでいました。

 毎週日曜日になると、子ども達は神社に集まり、みんなで掃除をして、「兵隊さん元気でご活躍ください。無事に活躍してください。」と出征兵士の祈願をしました。日曜日の「仕事」が終わると、木登りなどをして遊びました。当時はおやつがありませんでしたから、桑の実や柿、栗などの木の実を採って食べていました。

 この辺りは農家が多かったので、お腹を空かせた男の子達は、近所の家の畑からきゅうりやさつまいもをとって、食べていました。大人は、自分の子どもも余所の家で食べているので、怒りませんでしたし、当時は当たり前の光景でした。
ただ、幸せなことに、農家の家は、日々の生活の食糧に困ることは、あまりありませんでした。田畑で米や野菜を育てたり、川でドジョウを捕まえたりと、なんとか生活できていました。東京から、汽車に乗って食糧を求めに来た人が、着物を置いていく代わりに、お米や野菜を持って帰る姿も見たことがあります。

 

兵隊さんはもちろん、子ども達も大変だった

 当時の男性は出征兵士でしたので、女性や子どもで畑仕事などをしていました。
 私の家は父がいましたので、防空壕作りや畑仕事なども中心となってしてくれていましたが、小学生だった私も、午前中は勉強、午後は作業の毎日でした。終戦が近づく頃には、朝から1日中作業をする日もありました。

 学校では、松脂(まつやに)採りのお手伝いをしたり、遠い山へ木を運んだり、さつまいもの苗挿しなどをしたりしました。宿題として、出征馬(軍用の馬)に送る干し草を集めたこともありました。当時の作業の様子を描いた資料を片手に説明する積田さん
 松脂採りでは、国民学校高等科のお兄さん達が、遠く離れた山の松の木に目印の傷をつけておいてくれるので、当時小学校3年生だった私も、学校から仲間と容器を木に括りつけに行きました。疲れていても「あきらめません 勝つまでは」と、軍歌を大声で歌って励ましていました。当時は日本が戦争に負けるとは思ってもいませんでしたし、兵隊さんの代わりに働くことを、誇りに思っていたからです。

 また、私より少し年上の、今でいう中学生くらいのお兄さんお姉さんは、勉強もできずに、木更津にあった航空廠へ、勤労奉仕に行っていました。航空廠では、油を作ったり、飛行機を組み立てたりする作業をしていました。私の知り合いの方は、とても器用でしたので、中学校(現在の木更津高校)4年生で、飛行機の整備士として働いていたそうです。今では考えられませんよね。毎日地区ごとに、今日は吉野田、今日は昭和、今日は長浦、といったように、ローテーションで勤労奉仕へ行っていたそうです。

 吉野田地区から42名の村人が、木更津の航空廠へ勤労奉仕に行ったある日の話です。その日は、完成した飛行機を、試験飛行する日でした。ところが、その飛行機は上手くできていなかったのでしょう。飛行機は暴走して、吉野田地区から来た人達のもとへ突っ込み、大事故を引き起こしました。その事故では、42人のうち10人が亡くなり、27人が怪我をし、無事だったのは5人だけでした。工場で働く一般市民の犠牲もあったのです。

 

わたしたちのまちにも戦争はあった

 この辺りは田舎でさほど狙われませんでしたが、東京を攻撃し、ハワイやマニラ、太平洋の航空母艦へ戻る飛行機に狙われることが多かったです。飛行機に残っている弾を、空にして戻らなければならなかったからです。

 空襲は、時間を選びません。勉強中や作業中にも空襲に遭うことがあり、空襲警報が鳴ると、防空壕に入ったり、草むらや溝に身を隠しました。防空壕の中で一晩過ごすこともありました。カンカンカンカンと空襲警報の半鐘が鳴っている間は、防空壕の中で寝るしかなく、ぐっすり寝入ることはできませんでした。警報が終わって外へ出ても、また空襲警報が鳴り、すぐに防空壕へと戻ることもしばしばありました。

ピーススタッフきみつの方々で集めた戦争の資料 昭和20年(1945年)5月8日には、中川国民学校(現在の中川小学校の場所にあった)高等科の子ども達が、田んぼの草取り中に、アメリカの機銃掃射の攻撃に遭い、恐ろしい思いをしたそうです。
 また、この攻撃機が、富岡小学校分校(現在の吉野田保育所がある場所)も機銃掃射で攻撃し、用務員のおばさんが即死しました。その日は大詔奉戴日(たいしょうほうたいび/毎月8日に国民の戦意高揚をはかる日)で、校舎に日の丸が立っていたために軍需工場と間違えられたのだと思います。軍需工場はさまざまな物資を作ることから、標的とされることが多かったのです。
※この実話を元に作成された紙芝居の読み聞かせ動画(外部リンク/Youtube)

 戦争末期になると、いくつかの小・中学校は軍需工場へと変わりました。袖ケ浦市内だと、昭和小学校も軍需工場となったため、坂戸の森周辺には、木更津の航空廠から派遣された物資を運搬する軍用トラックが通る広い道や、工場製品などを隠すための大きな防空壕がありました。防空壕は大きいものが4基あり、工場製品を隠す用途以外にも、子ども達や近所の人が隠れる場所や、食糧などをしまう倉庫として使われていました。見張りの兵隊さんもいたそうです。

 

疎開してきた子ども達

 空襲の酷かった東京に住む子ども達は、袖ケ浦市内のお寺や旅館などに集団疎開していました。平川にある善福寺や延命寺、光福寺、それから当時あった藤本旅館なども疎開先でした。

 しかし、戦禍から逃れるために疎開してきた子ども達が、被害に遭うことも少なくありませんでした。
 永地の疎開児童がいた家には、アメリカの飛行機に撃たれた日本の飛行機が真っ逆さまに墜落し、住んでいたおじいちゃんとお母さんと孫、疎開児童もみんな一緒に死んでしまいました。
 また、同じく疎開先となっていた小糸(君津市)のお寺では、朝食を食べている時に機銃掃射の攻撃に遭い、向かい合ってごはんを食べている目の前に弾が走ったそうです。子ども達は逃げたので無事でしたが、お寺は燃えてしまいました。

疎開児童の集合写真 疎開してきた子ども達の家族に送った写真が、今も資料として残っています。まだ小さい子どもでしたので「帰りたい。」「お父さんやお母さんに会いたい。」と、泣いていたそうですが、写真はみんな笑顔で写っています。家族を心配させないために、元気な姿の写真を送らなければいけませんでしたので、無理して笑顔の写真を撮影したのです。ニコニコ笑っていますが、陰では泣いていたそうです。

 疎開してきた子ども達の家族は、東京大空襲などの空襲で一家全員亡くなってしまい、多くの子どもが戦災孤児となりました。家族を失い、戦災孤児となった子ども達は、食べる物も寝る場所もなく、生きるために盗みなどをしていたため、警察官から犬や猫を捕まえるように「狩り込み」に遭いました。子ども達が悪いことをしないよう、逃げられないように裸にされてから、檻に入れられたのです。
 また、親戚の家へ預けられた子どもも、厄介者扱いされ続けて親戚の家を転々とし、とても辛い思いをして、一緒に預けられていた兄弟が逃げ出したという記録もあります。お腹を空かし、死んでいった子ども達もたくさんいました。
 戦争へ行った兵隊さんももちろん大変でしたが、多くの一般市民も犠牲になっていたのです。

 

今も残る強烈な記憶

 ある夜、日本の戦闘機がアメリカのB29を撃墜し、近所に墜ちてきたことがありました。機体に星マークの入ったB29は、火を噴きながら家の上空を一度通り過ぎ、久留里(木更津市)の山の辺りでUターンして火だるまになりながら、閃光と爆音とともに低空飛行で近付いてきました。機体は、通っていた小学校のすぐ下に墜落しました。慌てて防空壕へ飛び込んだので無事でしたが、真っ暗闇の防空壕の中でも、墜落した爆発の光で、持ち込んだ布団の模様がはっきり見えるくらい明るくなりました。

 翌日、先生に連れられ、学校の運動場の上の畑へ行くと、墜落したB29の乗員である、一人のアメリカ兵が横たわって亡くなっていました。当時は、外国の本が禁止されていたので、外国の人がどんな姿をしているのか知りませんでした。茶色い毛むくじゃらの髭を生やしたアメリカ兵が亡くなっている姿は、子ども心にとても切なく、今でも鮮明に心に残っています。
 近くに住むおばさんが、その亡くなっているアメリカ兵に対して「この野郎が、おらが倅を殺した」と、罵っている姿を覚えていますが、今思えば、彼にも子どもが、あるいはまだ若く、両親がいたのかもしれません。

 

終戦の記憶

  当時の私は、学校の先生から「神風が吹いて日本は戦争に勝つ」と指導されていたので、負けるとは全く思っていませんでした。新聞やラジオでも、悪い戦況は報道していませんでしたので、疑うことも知りませんでした。

 昭和20年(1945年)8月15日。終戦を知らせる玉音放送が流れましたが、私の家にはラジオがなかったので、親や学校の先生から日本の負けを聞きました。

 私が敗戦を強く意識したのは、戦後まもなく、アメリカ兵がドカドカと土足のまま教室に入ってきたときのことです。とても恐ろしく、ガタガタと震えたことを覚えています。学校のみんなで踊りの練習をし、家から持ってきた着物を着て、アメリカ兵の前で発表したこともありました。

 日本の敗戦を知った時の記憶も、あまりありません。ただ、年の離れた姉が悔しがる姿は、よく覚えています。戦後のある日、姉は「アメリカが日本に来て、大切なものはすべて盗られてしまう。盗られる前に燃やしてやる。」と、家の庭ですべて燃やしていました。中には、私の大切なものも含まれていましたが、幼かった私は何も言えず、ただその様子を見ていました。

 

戦争は絶対に起こしてはいけない

 「戦争」は、国と国の争いで、人と人の殺し合いです。生きたくても生きられない。勉強をしたくてもできない。そんな戦争は、二度とあってはいけません。命を粗末にしてはいけません。生まれてきた以上、命は大事にしなければなりません。

 

語り継ぐ 未来へ

  私はおかげさまで、ここまで丈夫に生きてこられました。これからも健康寿命で、元気に生きていければと思います。私のつたない体験と追体験をもとに、「平和を語り継ぐ」仲間と共に、「平和の大切さ」「命の尊さ」を語っていきたいです。
 

 

Pick Up Word

防空壕

 空襲のときに避難するために作った穴。
 家に残っている男性や中学生くらいの子ども達が作っていた。当時は各家族で持っていたため、庭先や土手の中、山の中などいたるところにあった。庭先につくる場合は、竪穴で掘って上に木や竹を渡し、むしろをかけて土をこんもりかけていた。土手があった家は、土手を掘って横穴の防空壕を作っていた。

松脂(まつやに)

 松の木から採れる樹脂。第二次世界大戦末期は、日本の飛行機などの燃料が不足していたことから、松脂から飛行機の燃料用の油を精製していた。

当時の学校制度 ※一部抜粋

区分

修業年齢 修学年数

当時の学校制度

初等教育機関 国民学校 初等科 6歳~ 6年制
中等教育機関 国民学校 高等科 12歳~ 2年制
中学校 4年制

 

機銃掃射

  機関銃で射撃すること。当時は飛行機による機銃掃射の攻撃があり、アメリカの航空母艦から飛び立った飛行機が、屋根すれすれで飛行し、家や人に向けて機関銃を撃っていた。

B29

 第二次世界大戦で使用されたアメリカの大型長距離爆撃機。高度1万メートルから焼夷(しょうい)弾を落とし、日本本土の空襲や原爆投下に使われた。

東京大空襲

 昭和20年(1945年)3月10日のアメリカ軍による東京への大規模空襲。B29が囲むように焼夷弾を落とし、逃げ惑う人たちを目がけて、艦載機が機銃掃射で攻撃をした。一夜で10万人(一説には8万人)もの方が亡くなった。

 

 

 

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