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郷土博物館 見て★コレweb そではく見てみてコレクション

印刷用ページを表示する 更新日:2024年4月29日

郷土博物館の収蔵資料を紹介します

「見て★コレ そではく見てみてコレクション」は、 自慢の収蔵資料を紹介するコーナーです。

伝えたい、残したい。袖ケ浦の出羽三山信仰

千葉県は全国でも山形県の出羽三山への信仰が盛んな地域と言われますが、それは袖ケ浦も例外ではありません。江戸時代から現代まで多くの人びとが、出羽三山への登拝の旅「奥州参り」として、遠く出羽へと旅立ちました。そして、登拝から帰った人びとは、出羽三山を崇拝する講の構成員「行人(ぎょうにん)」となって、さまざまな行事を行い、地域で尊敬される存在となりました。
袖ケ浦周辺ではその講を八日講、講の集まりをする場所を行屋、行宿などと呼び、平成のはじめ頃までは、袖ケ浦の各地で行われていました。
ですが、現役を引退した世代の男性を中心とした集まりだったので、近年は講員の高齢化や参加者の減少から、講を解散する地域が増えてきました。現在、博物館には、下新田・下泉・下久保田の行屋で使われていた資料が寄贈されています。

※講とは、宗教・経済といったさまざまな目的達成のために組まれた集団のことで、本来は仏典講読や仏教の講話を聞くための集会を意味しました。
久保田大日如来
こちらは、下久保田の行屋から寄贈された大日如来像です。背面に「享保三年一月二十日作 慶応三年六月修理」とあり、また昭和35年にも修理していることが書いてありました。この仏像が作られた江戸時代の享保3年(1718)には、間違いなくこの地区に出羽三山への信仰が伝わっていたようです。下久保田の行屋からはもう1体、貴重な仏像が寄贈されています。
下新田行屋の神棚
こちらは、下新田の行屋で中心に祀られていた神棚です。
下新田の行屋内部
行屋ではこのように祀られていました。
下新田は行屋のすぐ脇に、寛文11年(1671)の石造の大日如来像が立っています。その頃には、下新田に出羽三山信仰が伝わっていたと考えられますが、これは袖ケ浦でもかなり古い方です。
下泉十二神将(巳神将)
こちらは、下泉の行屋から寄贈された十二神将像の1体です。十二神将は薬師如来の従者である武装した神様で、12の時、12の月、12の方角を守ることから、十二支の動物が配されており、それぞれが子神将(ねしんしょう)、丑神将(うししんしょう)等と呼ばれます。頭にそれぞれの動物の頭部がついており、この像は、巳神将(みしんしょう)のようです。
下泉の行屋では破損しているものもありましたが、12体すべてそろっていました。その内の1体の台座裏に「横田龍谷寺にて天保六 十二月十日作之」と記されていたので、横田にあった龍谷寺で、天保6年(1835)12月に作られたことがわかりました。
行屋は、念仏講など他の講でも使用されてきたので、直接出羽三山信仰とかかわりがあるかはわかりませんが、それらも含めて、地区の信仰の歴史です。


博物館では、令和6年5月3日から、企画展1「出羽三山と袖ケ浦の山岳信仰」を開催します。寄贈していただいた行屋の資料等から、地域の人びとが出羽三山をめざした意味を考え、この文化を次世代につなげたいと思いながら準備を進めています。

名誉の戦死  1人の若者が遺したもの 

戦時中、戦場などで倒れ、戦死・戦病死となった兵士たちは、「名誉の戦死」と讃えられ、村をあげての盛大な村葬が行われました。
紹介する2つの資料は、横田から出征し、昭和9年4月に満州国萌芽山で亡くなった若者の遺品で、彼の死後に戦友から遺族に届けられたものです。令和5年度春の企画展「井出先生の写真館」での展示をきっかけに、博物館へ寄贈されました。
彼は、昭和8年(1933)、20歳で徴兵検査に合格すると、志願して在外部隊服役願を提出、同年12月に入営し満州に渡りました。すると翌年2月、冬季討伐隊に加わり奮闘し、4月6日、萌芽山にて敵を追い詰めるも岩窟内に立てこもった敵兵からの銃弾に倒れました。享年20歳。
歩兵操典
これは表紙がなくなっていますが、『歩兵操典』といって陸軍歩兵の訓練や運用について記したもので、彼が亡くなった時に胸のポケットに入っていました。よく見ると上部が大きく裂けているようです。
歩兵操典 上から
上から見るとこのようになっています。これは、冊子の上部に弾が当たり、回転しながら抜けていった痕跡です。彼の受けた銃撃の様子が生々しく残っています。
小銃射撃手簿
これは、『小銃射撃手簿』です。表題に「歩兵初年兵竝(ならび)之に準する者」とあり、新人兵士が射撃の練習の際に記録したものと思われ、命中試験の成績や射撃訓練の結果が記録できるようになっています。
ここには、12月14日の第1習会から1月20日の第5習会まで記録が残っていました。最後の記録から1か月後に、彼は運命の冬季討伐に加わり、さらに1か月半後には命を落とすことになります。血気盛んな若者の軍隊生活は、わずか4か月ほどで幕を下ろしました。

彼の葬儀は、中川村初の村葬として盛大に執り行われ、戦友から届けられた2つの遺品は、死後に送られた従軍記章などとともに、これまで遺族が大切に保管してきました。
彼の遺品は、激動の時代に1人の若者が生きた証です。そして、当時このような若者は彼1人ではありませんでした。戦争が起これば、また多くの若者が戦場に駆り出されます。同じ悲劇を繰り返さないため、歴史の現実をしっかりと見つめるために、彼の遺品を博物館の歴史展示室に展示しました。是非、見に来てください。

井出先生の写真館番外編「ある日の横田駅」

令和5年4月29日から7月30日まで開催しました企画展「井出先生の写真館-キミ、シニタマフコトナカレ-」では、市内横田で地域医療を支えた井出医院の初代と2代目の院長が撮影した出征前の記念写真を中心に展示しましたが、実は井出先生が残した写真の中には他にも貴重な写真がありました。
ある日の横田駅1
ある日の横田駅2
横田駅3
 この3枚の写真は、たくさんの俵詰めされた荷物が駅で出荷を待っている風景のようです。1枚目の写真に写っている大きな石碑が横田駅前の「横田耕地整理の碑」と思われることから、横田駅であると推定できます。
横田耕地整理の碑
横田耕地整理の碑
(撮影:市民学芸員郷土を学ぶ会)
 この横田耕地整理の碑が、昭和5年(1930)に建てられたことであるため、これらの写真が撮影されたのが昭和5年以降であることがわかります。井出先生が残したその他の写真の年代と合わせると昭和5年から20年頃までの写真と考えてよいでしょう。
久留里線
 写真の中には、久留里線の車両を撮影したと思われるものもありました。

「紫微宮星座」呪符木簡 しびきゅうせいざ じゅふもっかん

西原遺跡「紫微宮星座」呪符木簡
 これは、袖ケ浦市永地の西原(さいばら)遺跡で出土した珍しい呪符木簡です。呪符木簡とは、災い除けや願望成就のために、まじないの文字や記号を書いた木の札です。木の札は腐りやすいので土の中から良好な状態で見つかること自体が珍しいのですが、田んぼの土の中で水漬けになっていたために腐らずに遺っていたものです。
 さらに、この呪符木簡には、赤い字で「此身護為(この身、護るため)」と読んる文字が下方に大きく書かれていて、上方には「天柱(てんちゅう)」の文字と「口」のようなたくさんの記号が記されていたことから、発掘当初から大変話題になりました。そして天柱とは、古代中国の北極星を中心とした天の宮廷「紫微宮」において中心となる星「天柱五星」であり、この木簡が星の信仰と関わるものでないかと考えられえきました。
 その後、陰陽道の専門研究者の研究により、「口」はそれぞれ星を表しており、線でつながっているのは星座で、北極星を中心に紫微宮中の6つの星座が配置されているものだということがわかりました。星座といえば、奈良県の高松塚古墳とキトラ古墳の壁画が有名ですが、描かれている星の数でいえば、キトラが74以上、高松塚が32で、この木簡はそれらに次ぐ数の星座が記された大変貴重なものです。木簡の作られた年代も奈良時代後半までさかのぼる可能性が指摘されています。

富士山道中

富士山道中表紙
弘化2年(1845) 6月28日から7月12日まで、神納新田から富士参詣に出かけた弥市兵衛の道中記です。令和4年度企画展「富士山」に合わせるように、絶妙なタイミングで寄贈されました。山包(やまつつみ)講の一行であったことが明記されており、同じ講中の小櫃・小糸(君津市)の参加者と合同での一行は、およそ120人余りだったと記されています。
行程は、6月28日、木更津の大津屋で昼食をとった後、船で江戸へ向かったと思われ、その日は江戸橋の上総屋に宿泊。翌29日は、四谷で休憩、高井戸で昼食をとった後、府中 録社大明神(ろくしゃ大明神:大國魂神社)を参詣する等、道中の名所も楽しみながら富士山へ向かい、7月3日、御胎内へ参詣して御師宅へ宿泊し、7月4日、いよいよ富士山登拝となります。この日の記録は、「富士山に参詣 三合目昼食 八合目泊り」とあり、頂上へは翌5日到達し、富士山の絵付きで「頂上五日」と書かれています。翌日の6日は山中湖に立ち寄った後、須走(すばしり)で昼食していますが、この須走に「小野大和守と云う御師様有り、上総掛り」といった書込みがあります。
その後は、小田原道了山、大山、江ノ島、鎌倉(鶴岡八幡宮・長谷寺・大仏等を参詣)、金沢、浦賀を経由して神奈川から船に乗り、7月12日木更津昼食で日記は終わっています。末尾に御師宅で掲げられた「まねき」のスケッチ等の記載もあり、旅の楽しさが伝わる道中記です。
富士山道中富士参詣
いよいよ富士山登拝
富士山道中須走から大山
須走-矢倉沢関所-小田原道了山-大山
富士山道中山包講紋
大きく記された山包講紋
富士山道中マネキ
旅のスケッチ。定宿・御師宅のまねき

110年前の東京湾-漁業図で見る「豊穣の海」-『東京湾漁場図』

東京湾漁場図
この資料は「東京湾漁場図」といい、明治41(1908)年に発行されたものです。その当時の東京湾の漁場が詳細に記されており、かつての東京湾がいかに豊かであったかうかがい知ることができます。
非常に遠浅だった湾の北側では、底引網漁が盛んに行われていたことがわかります。特にクルマエビやアカガイを獲るための「けた網」の漁場が多く、はんぺんの原料になるサメを狙った「さめ網」が行われているところもありました。海岸付近は干潟を中心にアサリ・バカガイ・ハマグリなどの二枚貝の漁場があり、品川や大森周辺では海苔養殖が盛んでした。
袖ケ浦に注目してみると、蔵波や久保田周辺の干潟にアサリやシオフキなど二枚貝の漁場のほか、その外側には「きしゃご場(イボキサゴの漁場)」がありました。イボキサゴは肥料として利用されており、袖ケ浦では古くから重要な水産資源でした。後年盛んになる海苔養殖は、この時点の袖ケ浦ではまだ行われていません。その理由は干潟の外側にある「あじ藻場(アマモ場)」で、アマモの葉が切れて海苔に混じると、海苔の品質が落ちることから、当時の海苔漁師に嫌われていたためでした。
また、この図の制作者は、桜井(木更津市)出身の水産業指導者・泉水宗助です。泉水宗助は、地元桜井をはじめ君津・市原等で海苔養殖を勧めた人物で、郷土の先覚者として、近年注目されています。

文治五年源頼朝卿奥州征伐ノ図(ぶんじごねん みなもとのよりともきょうおうしゅうせいばつのず)

江戸時代(天保-弘化期:1830-1848)  歌川芳虎 作
文治五年源頼朝卿奥州征伐ノ図
奥州征伐(奥州合戦)は、文治5年(1189)7月から9月にかけて行われた、源頼朝による奥州藤原氏との戦いで、治承4年からはじまった治承・寿永の乱の最終戦になります。源平の争乱は、元暦2年(1185:文治元年)3月の壇ノ浦の合戦にて平家が滅亡したことで決着し、また、平家討伐の合戦で目覚ましい活躍をした源義経も、源頼朝の圧力に負けた藤原泰衡により、文治5年の閏4月に平泉の衣川館で妻子とともに自害させられています。
この絵の中央付近に大きく描かれている西城戸太郎國衡は、藤原國衡のこと。藤原泰衡(正室母次男)・國衡(側室母長男)はともに、源義経を養育し最後まで庇護した奥州の武将、藤原秀衡の子息です。奥州の平和のため、頼朝に義経の首を送った泰衡でしたが、もともと頼朝の目的は奥州藤原氏を討つことにあったため、頼朝から義経をかくまったことや頼朝の許可なく義経の首を取ったことを責められ、鎌倉軍の襲撃を受けることとなりました。 
この絵は、國衡らが敗れる阿津賀志(あつかし)山の戦いを描いたものです。ちょうど場面は、國衡が討ち取られるところ。和田義盛が射った矢が当たって國衡が負傷したところに、畠山重忠配下の大串重親が襲い掛かり、國衡は最期を迎えます。その後、重親が國衡の首を畠山重忠に差し出したので、後に和田と畠山との間で國衡討伐の手柄を巡り、口論となりました。
さて、この絵の下の方に「飯富源太(おぶ げんた)」という名前があるのがわかりますか?飯富(おぶ)氏は、上総国飯富を本拠地とする御家人とされていますが、資料が少なく詳細はわかっていません。『吾妻鏡』の元暦2年(1185)の記事に、源太宗季(むねすえ)という者が、関東で囚人となっていた父の存否を確認するために上総国飫富庄(おおのしょう:現在の袖ケ浦市飯富周辺)へ下ってきたこと、宗季が矢を作る達人だったために頼朝に認められ、御家人になったこと等が記されています。宗季は頼朝から飫富庄の地を安堵され、飯富氏を名乗ったものと思われますが、他に資料もなく、伝説的な人物です。後世の江戸時代の作品ですが、当地ゆかりの人物が描かれた貴重な地域資料です。
飯富源太
飯富源太の部分

「鎌倉街道」から出土したもの

袖ケ浦市内に残る「鎌倉街道」地名の1か所、野田字鎌倉街道。ここに所在する山谷(さんや)遺跡は、館山自動車道建設に伴って行われた発掘調査で、中世の道路の跡が見つかっています。ちょうど、ここは治承4年(1180)の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が再起をかけて北上したとされる「鎌倉街道 上総路」と重なっています。道路跡は車や人馬の往来で硬化しており、道路跡に面して多数の建物跡や貯蔵施設なども見つかりました。遺跡からは数多くの陶磁器が出土していますが、出土品から考えられる遺跡の年代は13世紀後半から15世紀で、残念ながら頼朝が通過したとされる時期よりも新しいものです。しかし、治承・寿永の乱の頃である12世紀後半の陶器も、わずかではありますが出土していますので、紹介していきます。
渥美窯産の壺と甕
渥美窯産の壺と甕の底部です。渥美窯は愛知県渥美半島において、12世紀初頭から13世紀末にかけて操業した古窯です。
常滑窯産捏鉢
常滑窯産の捏鉢の底部です。常滑窯は、愛知県常滑市を中心とする知多半島全域に分布する古窯で、山谷遺跡で出土した陶器も大部分が常滑窯産の甕や鉢です。
常滑窯産甕
どちらも常滑窯産の甕の肩の部分です。押印文が施されています。
今回は、頼朝が通過した頃と同じ12世紀後半の出土品だけを紹介しましたが、郷土博物館の歴史展示室では、青磁や白磁といった輸入磁器など、他にも山谷遺跡から出土した資料を展示しています。ぜひ、お越しください。
歴史展示室中世
横田郷遺跡・山谷遺跡出土資料展示コーナー

『東京湾に横断堤を-高潮と交通の解決策として-』

『東京湾に横断堤を』
この資料は、民間シンクタンク産業計画会議が昭和36年(1961)に発表したレコメンド(勧告)です。産業計画会議は、これに先立つ昭和34年(1959)、『東京湾2億坪埋立についての勧告』を発表し、東京湾の3分の2を埋め立てて新たな都市「ネオトウキョウ」を造るという「ネオ・トウキョウ・プラン」提唱しました。
その直後、東海地方を伊勢湾台風が襲い、大変な被害があったことから、東京湾周辺の埋め立て低地を高潮から守るため、「ネオ・トウキョウ・プラン」で計画していた川崎・木更津間の横断堤を早急に建設する必要を強く主張しました。 
東京湾横断堤イメージ図
この本の中に掲載されている東京湾横断堤のイメージ図です。川崎―木更津間の川崎側はトンネル、木更津側は橋梁をつくり、それぞれ1km程度の航路をあけ、自動車道路とともに鉄道も敷設する計画でした。
ネオ・トウキョウ・プランも東京湾横断堤も、そのままでは実現しませんでしたが、この計画は東京湾アクアライン構想の原点になりました。
令和4年3月23日(水曜日)までの企画展「アクアラインとなるほど館の軌跡」では、本館ロビー会場にてこの資料を展示しています。
また、「ネオ・トウキョウ・プラン」については、『袖ケ浦市史研究』第19号掲載の「東京湾アクアライン構想の変遷をめぐる一考察」(當眞嗣史 著)にて詳しく読むことができます。

平岡村高谷 『諸通牒綴 附諸進達及報告』

諸通帳綴表紙
こちらは、平岡村高谷区(現 袖ケ浦市高谷)で保管されていた通知文書等の綴りです。表紙には大正8年(1919)とありますが、大正9年(1920)3月8日までの文書が綴られています。この綴りの中には、後に「スペイン風邪」と呼ばれる大正時代の流行性感冒について記された文書がありました。
令和3年5月1日から7月18日まで開催した企画展「病と医療」で展示しましたが、綴りなので一部しかご覧いただくことができませんでした。ここではもう少し詳しくお見せしたいと思います。
「流行性感冒予防法方ノ件」
その中の1通、「流行性感冒予防法方ノ件」です。スペイン風邪流行中の大正9年(1920)1月29日、区長から衛生組長に送られた文書で、
・患者の家に立ち寄らないこと
・塩水で日に2・3回うがいをすること
といった予防方法にあわせ、
・希望者10名以上、20名くらいまでは予防注射をする。
と、記されています。
流行性感冒予防注意事項
こちらは大正9年1月31日に送られた「流行性感冒予防注意事項」です。上の文書と同じようなことが書いてありますが、こちらには
・必要のほか集合を避け、夜は長起きをしないこと。
・鼻口を覆うこと。マスクを用いるべし。
・予防注射もできる限り協力して行うこと
といった記載もあります。
「恩賜財団済生会ニ関スル件通帳」
この文書は、大正9年(1920)2月4日、平岡村役場から各区長に出された通牒ですが、貧困のために医療を受けられない人のために、恩賜財団済生会が配当療養券の許す限り極貧者に治療券を交付し、無料投薬をするので、該当する者がいたら申し出るようにというものです。

『深川元儁翁詠草』

 深川(深河)元儁(ふかがわ もととし)は、文政7年(1810)に生まれた江戸時代の学者です。深河家は、代々、市内飯富の飽富神社の神官を務めた家柄で、神道・国学等の優秀な学者を輩出してきました。元儁は、幼いころから優秀で、安政3年(1856)年に没するまでに儒学・蘭学・医学・薬学・動植物学・詩歌等に通じ、多くの著作を残したとされますが、現在は一部しか残っていません。
 今回紹介する『深川元儁翁詠草』は、元儁の詠んだ約800首の和歌が、推敲の跡とともに記載された貴重な記録です。
 こちらは、『袖ケ浦市史研究』第20号に掲載していますので、ぜひ『袖ケ浦市史研究』第20号をご覧ください。
深川元儁翁詠草表紙
深川元儁翁詠草

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